気まぐれ日記 05年3月

05年2月ここ

3月1日(火)「長女の卒業式・・・の風さん」
 朝から冷え込みがきつい。外は寒風が吹いている。
 長女の高校の卒業式の日である。この近辺では最も規律が厳しいと言われる高校に、長女は入学した。私は気に入っていた。かつて私が子供の頃、子供をミッション系の学校や全寮制の学校に入れて安心している親がいたが、その気持ちは分からなかった。今にして思うと、私も当時のそういった親と同じ心理になっていたのかもしれない。いつの時代も「今の若いものは・・・」というのが親の心理なのだろう。
 実は、夕べまで長女の卒業式を忘れていた。長女の入学以来一度もその高校を訪ねたことがなかったことや、もしかすると今年大学へ進学しない長女にとって、親が出席できる最後の卒業式になるかもしれないと思い、出席の想いは募っていた・・・にもかかわらず、日々の多忙と進行するボケのせいで、失念していた。
 午前中は、大事な会議が二つも入っていたが、先ず決意しなければ何事も始まらないということで、昨夜のうちに同僚にメールで午前有休などを伝えておいた。
 1月に訪問した嵯峨野高校の生徒たちと似たような明るさと雰囲気をもっていた。服装などの乱れも、特に強い不快感を催すほどではなかった。やはり良い学校へ入れることができたのに違いない。長女にとっては、通学の不便さが超最悪だったろうが。
 学校長の挨拶やPTA会長の挨拶は素晴らしかった。ある年齢に到達して初めて分かる内容なのかもしれない。だとすれば、今の生徒のほとんどにとっては、退屈なもので、その価値は理解できないものなのだ。かつての私と同じように。学校長はホットな時事問題にも触れつつ、論語の言葉を引いたりしていた。元農業高校の校長だった亡父も、何度もこういう場面で生徒にメッセージを残したに違いない。
 式場となった大きな体育館の中で凍えながら、長女の記念の式を見届けることができた。
 同行したワイフとランチを外食してから別れ、私は会社へ直行した。

3月2日(水)「二七日(ふたなのか)・・・の風さん」
 父の二七日である。
 初七日の日に勤務先のトップである会長に職場へ来てもらい、重要な業務報告をしたように、今日も重要なイベントがあった。私が担当するプロジェクトと密接な連携をとっている、5つの会社との「社長会」を1年ぶりに開催したのである。プロジェクトが昨年から今年にかけて新たなフェーズに入るため、連携5社トップとのベクトル合わせの会合は重要だった。
 昨年来、さまざまな場面で5社と個別に根回しを続けてきた。その集大成が今日だった。
 朝から会社のゲストハウス的な役割を担っている施設へ行き、プロジェクトの状況報告をし、昼食と懇談を経て、無事に「社長会」は終了した。いや、無事というより、目的は達成した。成功したのである。今後は、5社以外にも新たな協力会社を加えながら、プロジェクト成功に向かって邁進していくのである。
 帰宅後、2時間ほど仮眠をとってから、午前3時まで会社の仕事をした。
 来週の三七日に当たる日も、大きなイベントが控えている。父に背を押されながら、何とか乗り切っていくことになるだろう。

3月3日(木)「父のルーツ調査の巻」
 夕食のときにひな祭りの料理が並んだ。桜色のでんぶで色鮮やかなちらし寿司。切ると女の子の絵柄が現れるかまぼこ。歳月がゆったりと流れていくのは、平和のありがたさ、そして季節感は日本の財産だ。
 その食事の時に、父の話題をした。実は、父の正確な学歴を知らない。これまで何となく東京高等師範の出身だと思っていた。今回、手に入れた茗渓会の雑誌とそのホームページから推理してみると、やや疑問が生じてきた。茗渓会は、現在は筑波大学の同窓会という印象が強い。筑波大学の前身は東京教育大学である。さらにその前のルーツを探ると、東京高等師範以外にもたくさん枝分かれしていることが分かったからである。
 父の訃報を茗渓会事務局へメールで送る際、登録してある父の学歴を教えてほしいと付記した。
 月曜日に自宅に電話がありワイフが出たのだが、先方が要領を得ない説明をしたらしく、ワイフも説明しきれず納得できなかった。それで、今日、ようやく見つけたわずかな時間に、茗渓会へ電話してみた。
 「東京農業教育専門学校の昭和13年卒です」
 月曜日に説明してくれた人は、詳しいことを知りたいと言う私の要求に、「資料がありますから、ファックスします」という回答で、帰宅してすぐそのファックスを見てみたが、その図を眺めてもまだ疑問が残った。
 東京農業教育専門学校は父が卒業する前年の昭和12年に***農業教員養成所が独立したものだった。東京農業教育専門学校が1年で卒業できるものだろうか。名称から推定すれば、2年か3年の修業課程がありそうである。卒業した昭和13年、父は22歳である。高校を卒業してから4年が経過している・・・。卒業したのは東京農業教育専門学校でも、入学したのは***農業教員養成所だった可能性がある。
 それでは、農業教員養成所とは何か?
 さんざん調べた結果、「東京大学農学部の沿革」と「東京農工大学附属図書館年表」というページから、いくらか分かってきた。
 明治7年4月の内務省農事修学場創設からルーツは始まっていた。
 明治23年6月、東京農林学校を帝国大学に合併し、分科大学として農科大学を設置。
 明治30年6月、帝国大学を東京帝国大学と改称。
 明治35年4月、農業教員養成所が農科大学の附属となる。
 大正8年2月、東京帝国大学農科大学を東京帝国大学農学部と改称。
 昭和10年4月、東京帝国大学農学部の中の実科が独立し、東京高等農林学校(後の東京農工大学)となる。
 昭和12年4月、農業教員養成所が独立して、東京農業教育専門学校となる。
 つまり、東京農業教育専門学校の前身は、東京帝国大学農学部附属農業教員養成所だったのである。
 父は、東京帝国大学農学部附属農業教員養成所に入学し、東京農業教育専門学校を卒業したのではないだろうか。父のルーツを調べるのが楽しくなってきた。
 
3月4日(金)「さすがに疲れた・・・の風さん」
 「電通報」用の原稿が、3月7日号の文化欄に載ることが決まり、昨夜は最後の著者校正をした。それが終わってから、また会社の仕事を午前4時近くまでやってから少し寝て、今朝は出社した。
 昨年は、こんな無理ができない体になっていた。「めまい」で出社もできなかった。それが、けっこう無理ができるということは、元の体に戻ったというか、精神状態が復活したということだろう。
 今日も、勤務先の役員のヒアリングを2件受け、退社したのは、9時半過ぎだった。
 途中、レンタルショップでCDを借り、ガソリンを給油し、帰宅したのは11時頃だ。
 夕食をとったら、さすがに体力の限界を感じたので、PSPでリッジレーサーを1戦だけ走った(2着)後、まっすぐベッドへ倒れ込んだ。

3月5日(土)「梅にメジロ・・・の風さん」
 朝風呂に入って、トーストとコーヒーで朝食にした後、お代わりのコーヒーを持って、サンルームへ入った。庭の梅がようやく三分咲きといったところか。久しぶりにゆったりした気分でいたら、小鳥が二羽飛んで来て、梅の枝にとまった。緑色の羽根に、目の周りが真っ白。そう、メジロである。二羽ということは番(つがい:夫婦)かもしれない。急いで、デジカメを取ってきて、アングルを決めているうちに、あっけなく飛び去ってしまった。
 ようやく気まぐれ日記の3月分を書き出した。
 午後、ポストをチェックすると、楠木誠一郎さんから新刊が送られてきた。『記憶をなくした少女』(ジャイブ 760円税別)である。快調に出版街道を歩いておられるので、尊敬してしまう。今回の本も、うちの次女が好きな少年少女探偵物だから、「感想のハガキを必ず出すんだよ」と言っておいた。次女は、いつか楠木さんのサインをもらうつもりでいる。
 今日は、灯油の買出しに出かけたりしたので、非常に疲れてしまい、ただひたすら休養に専念した1日で終わってしまった。

3月6日(日)「一周忌の家族の姿・・・の風さん」
 昨年亡くなった上司の一周忌の法要に呼ばれたので、ミッシェルで犬山市まで出かけた。
 うちも来年、父の一周忌をしなければならない。
 お寺(臨済宗妙心寺派)は犬山城の近くだった。昨年、からくりの実演を見学に来て、ついでに犬山城も見学したので、見覚えのある風景だった。
 法要には親類縁者だけでなく、会社の同僚や学生時代の友人らも招待されていて、けっこう盛大だった。
 お坊さんの読経のとき、参列者も般若心経を一緒に唱えた。
 焼香の後、お坊さんの説法があり、「いのちの大切さ」を訴えておられた。「衆生一切仏性あり」ということは、私たち子供の頃は、教えられなくても、何となく感じていたような気がするが、物が潤沢にある現代、「勿体無い」という言葉まで死語になりつつある。平和で豊かなことはありがたいことのはずなのに、なぜか胸の中をうそ寒い風が吹き抜けていく昨今である。
 お墓にも行って拝んだ後、同じく犬山城近くのホテルへ場所を変えて、会食となった。
 故人には3人の子供があり、この3人が終始、一周忌の法要を進行させていた。長男は大学院在学中、次男は今年大学を出て社会人になる。長女は既に社会人だ。
 印象的だったのは、会食の時、この3人がテーブルを回りながら、懸命に亡くなったお父さんのことを聞いていたことだ。家庭で眺めていた父親ではなく、会社での父親、学生時代の父親というものを具体的に聞き出して、今は亡き父親の実像を明瞭にとらえようとしていたのだ。今ごろ、父親の学歴を調べている自分と同じだなあ、と思った。
 また逆に、私も元上司の家庭での姿を知ることができて、非常に感銘を受けた。
 夜は、締め切りが迫っている確定申告の書類作成をし、午前1時に郵送の準備までできた。
 それから、会社の仕事をしようとパソコンを立ち上げたが、あまりできなかった。
 昼間と違い、夜はかなり冷え込んできた。

3月7日(月)ボツにもめげない風さんの巻」
 昨夜、午前1時までかかって確定申告の書類を書き終え、今朝、郵便ポストへ投函した。着々と仕事が終わっていくのはうれしいが、雑用をこなしているだけでは進歩はない。アウトプットを出さなければ。
 帰宅も少し遅かったが、その遅い時間に某出版社から電話があった。預けてあった短編集の企画案が、残念ながら「ボツ」とのことであった。あまりショックでなかったのは、内心不安があったせいだろう。それでも、残りの企画に可能性があるとのことで、もう少しアイデアを盛り込み、具体性をもたせて再度挑戦するつもりだ。それに、「ボツ」になった企画だって、他へ売り込んでもいいのだ。とにかくアウトプットを出さねば。
 そして、今夜は午前3時まで仕事してしまった。もちろん会社の仕事である。やれやれ。

3月9日(水)「三七日の社長報告・・・の風さん」
 三七日(みなのか)である。
 朝刊によれば、日中の最高気温が17度、とある。
 朝食をゆっくり摂っている余裕もない。
 今朝の3時まで仕事したのは、昨日と同じ。
 起床したのは6時で、これは昨日より1時間も早い。・・・死ぬかもしれぬ。
 ミッシェルで本社へ直行した。今日午前、社長への報告があるのだ。初七日、二七日、三七日と、見事に会社の重い仕事の日と重なっている。
 何とか、報告を終えたが、次の報告会の開催は早めなければいけなくなった。やれやれ。
 本社で昼食を食べたが、今日のねぎらいの意味で、天丼を選んだ。そうしたら、午後の会議で猛烈に眠くなり、何度もうつらうつらし、会議が終わる頃にはスッキリした〜(バカもん!)。
 定時後速やかに退社し、途中コンビニでワインのハーフボトルを2本買って(これも自分で自分へのねぎらい)、必死ぶりに空が明るいうちに帰宅した。

3月10日(木)「今度は中学校のPTA役員・・・の風さん」
 目覚めたら、天井のシャンデリアの豆電球がぼんやりと灯っていた。左目が雲がかかったようで見えない。霰粒腫の左目だ。どうやら目ヤニで眼球が覆われているようだ。わびしい〜!
 そうか。夕べは食事後、急に眠くなり、ソファに横になったのが運の尽き。今朝まで寝てしまったのだ。
 よろよろと起き出して時計を見ると、6時前だ。急いで浴室へ行った。ボヤボヤしていると子供が朝風呂にやってくる(笑)。
 シャワーを浴びてヒゲを剃ってから書斎に入り、まずメールチェック。それから、井上陽水のCDのコピーを作った。そこまでで、もう出社時刻が迫った。
 ミッシェルに乗り込んで、早速コピー
したCDをハードディスクナビへ挿入して録音を試みた・・・が、できない。色々とトライしてみると、全曲録音はできないが、3分の1ぐらいならできる。もしかして、ハードディスクがもう満杯?
 ・・・超多忙な会社生活をして、10時過ぎに退社。
 帰宅して遅〜い夕食を摂っていたら、次女がやってきた。
 「お父さんって、有名ね」
 「ん?」
 はい、と言って渡された封筒に入っていたのは、中学校のPTA役員の委任状だった! 選挙の結果、選ばれたらしい。まだ、町内会の役員の仕事が終わっていないのに〜!

3月11日
(金)「冬将軍との対決前夜?・・・の風さん」
 明日
から3泊4日の旅行である。ところが、ようやく春らしくなってきたのに、急に強い冬型の気圧配置になり、上空には零下30度を超える寒気が覆ってくるらしい。どうなることやら。

12「一関市博物館訪問の巻」
 午前7時、どんよりとした空の下、セントレア空港へクルマで向かった。父の訃報に接し、全く予想もしていなかった開港二日目のフライトに搭乗してから約3週間である。今回の旅行のために事前に空港の下見をする予定だったが、あの日が思わぬ下見になってしまった。しかし、そのお陰で、チケットレスでスムーズにチェックインでき、7時50分発の仙台行きJAL3171(機種はB737−400)に搭乗した。インターネット予約時に座席指定ができるので、ファーストクラス気分が味わえるように、空いている最も前の方の席(3K)を確保した。
 仙台は晴天だった。ここの空港も昨年10月の母校での講演のときに利用しているので、勝手は分かる。預けた荷物を受け取ってから、まっすぐリムジンバスの切符販売機に向かった。仙台駅には当初予定よりも早く着いたので、早めの新幹線に乗車できた。
 初めての一関市訪問である。日陰に少し雪が残っていて、風が冷たい。荷物のひとつをコインロッカーに預け、前もって一関市博物館の人にファックスで送ってもらった市内地図を片手に、徒歩で取材を開始した。今回の一関では「和算に挑戦」の表彰式出席とともに、大槻玄沢関連の調査も大きな訪問目的だった。
 駅前広場にある大槻玄沢ら3賢人の顕彰碑を皮切りに、建部清庵(たけべせいあん)、千葉胤秀(ちばたねひで)と歩道に設置してある石碑を見ていく。一関市は昭和23年の台風による水害で壊滅的な被害を受けたそうで、それ以前の歴史的な遺構はほとんど失われたという。そういう中で、仙台藩の支藩だった一関藩の家老の屋敷(旧沼田家武家住宅)が復元されて、一般の見学が許されていた。家老屋敷とはいっても三百石ほどの家禄しかなく、外見は農家のようである。門をくぐって屋敷の入り口の敷居をまたぐとそこは土間で、左にかまど、右手に囲炉裏を切った板の間が見えた。天井には板もない。土間にはまるで霰が降ったような氷雪の粒が融雪塩のように積もっていた。
 無料であり、見学自由とのことだったので、靴を脱いで勝手に勝手に上がり(無断で台所に上がりのシャレ)、納戸から六畳の座敷、上座敷に通り、DVD紹介ビデオを自分で操作していたら、槍の間に詰めていた管理人のおじさんがにゅっと現れてどっきりした。
 江戸時代中期ごろの質素な家老屋敷であることが分かった。
 そこから今はマンションになっている大槻玄沢生誕地を見、磐井川の土手に登って寒々とした冬の景色を遠望した。上の橋のたもとで白鳥や鴨を餌付けしていた。
 続いて、大槻玄沢屋敷跡をチェックして再び駅前に戻り、せっかく岩手県に来たのだからと蕎麦屋へ入って鴨南蛮で昼食にした(混んでもいないのに、注文してから出てくるのに気の遠くなるような時間がかかった)。
 1時に駅まで迎えのマイクロバスが来てくれて、もう1人、神奈川県からやってきた方と一緒に博物館へ連れて行ってもらった。ここ一関でも合併問題で揺れているらしく、私も南セントレア市の顛末を詳しく語った。
 第3回目になる「和算に挑戦」は、初めてインターネット上に登場させたこともあり、昨年の4倍ほどの応募があって、審査は困難をきわめたそうである。
 結局、初級と中級問題にそれぞれ4通り、さらに上級問題に6通りの回答を寄せた方が、最優秀賞とも言うべき「博物館長賞」となった。他に、岩手県和算研究会会長賞というのもあり(会長からは貴重な和算研究の著書を頂戴した)、私の上級問題「優秀賞」(全部で5名)は少々影が薄くなってきた。にもかかわらず、「優秀賞」の代表としてスピーチする機会を与えていただいたので、「今こそ和算の見直しを!」と訴えた。昨年お世話になった東北大学附属図書館の担当者の方から、お祝いの品までもらい恐縮した。
 記念撮影後は、今回のもう一つの目的である「大槻玄沢」の資料調査を実施した。
 充実した一関での活動を終え、夕方の新幹線で福島県へ向かった。

13「父の遺品整理・・・の風さん」
 父が死んで3週間が経過した。遺品の整理は私の担当なので、今回、その目的で実家を訪れている。
 昨夜は、新幹線を降りて郡山駅を出たら、雪が激しく降っていた。いよいよ予報通りの寒気が迫ってきたらしい。迎えて今朝は、日が照っていたが、ときおり雪が舞うやはりあいにくの天気で、父の部屋の窓を大きく開けたままの作業は寒くてつらいものがあった。それでも、アルバムが納められている本箱を一つ丹念に調べながら、捨てるものとその後の処理をどうするか後日検討するものに分類していった。

 アルバムからは、仕事一筋だった父が意外にも、仕事関係の写真の合間合間に家族の写真を貼り付けていて、仕事も家族も父にとっては同一線上にあったことが分かった。家族との交流がきわめて少ない父だったので、むしろ、予想以上に家族に対する愛情を感じることができて、写真を眺めながら、私は涙が止まらなかった。
 夕方からは兄夫婦も交えて、仏壇や位牌のことを相談をした。
 そもそもお墓は私の家の近くに用意してあり、その寺の檀家に私はなっていて一生供養することが決まっている。問題は福島にはどのような準備をしておくべきか、ということだった。結局、一人残された母の家に仏壇と位牌を用意して、兄夫婦は適宜そこを訪れて拝むことになった。
 この日は外で夕食を摂り、帰りに母と温泉に入って帰宅した。そして、寝る前にもう少し遺品の内容の点検をしたりしたのだが、謎だった父の学歴の一部が明確になってきた。東京帝国大学農学部入学以前のことである。これで、あとは大学入学前後のことが判明すれば、職歴含めて、父の経歴を書き上げることができそうだ。

14「久々の秋田は雪の中・・・の風さん」
 心配された寒波は太平洋側までは押し寄せてこなかったようだ。今日も晴天である。
 当初は今日も会社を有休にして父の遺品整理を続けることにしていた。しかし、秋田出張という会社の仕事が入ったので、郡山駅からまた新幹線に飛び乗った(とは言え、愛知県からやってくる同僚より時間的に余裕があったのは言うまでもない)。
 仙台で「やまびこ」から「こまち」に乗り換えた。秋田と岩手の県境を通過するルートは、山越えの懐かしい風景が車窓を流れていく。山肌も木々も川も道も、すべて真っ白に雪で覆われている。暖かくて春のような車内から眺める景色は、凍えるような気温だろうが、静謐で穢れのない自然の神秘と美を感じさせる。これで、美味い肴で純米冷酒を飲みながら眺めることができたら最高だろう。
 田沢湖、角館、大曲と懐かしい土地の駅をたどりながら、次第に「こまち」は終着駅「秋田」に近づいた。亡き父の仕事の関係で、1歳のときに秋田に移り住んだ私は、ここ秋田のさまざまの土地で18年間暮らした・・・いや成長した。心の故郷である。
 空は真っ青に晴れ渡っているが、ときどき粉雪が舞う。この時期、これだけ雪の多い秋田市は、もちろん最近ではなかったことだが、昔でも珍しい。しかし、雪に覆われた風景は、やはり秋田にふさわしい装いだ。
 「秋田へようこそ」と会社の同僚におどけてみせたが、自慢げに高校時代の生活を「・・・ぼくらは最後のバンカラ世代だった」と語ったら、「それじゃ、まるでダルビッ**。不良じゃないですか」と言われてしまった。え? 私は何て語ったのかって?
 「定期試験が終わるとまっすぐボウリング場へ向かい、その後はパチンコ屋だ・・・」
 「修学旅行じゃ、先生と一緒に酒を飲んでいたよ。それからパチンコ屋へも行ったし・・・」
 訪問先の会社では、秋田出身であることや小説家であることなどを暴露して、楽しく仕事することができた。また、秋田が酒や料理が美味で、また美人の多い土地であることなどを語り合い、一時仕事も忘れたほどである(あー、嘘です。一時じゃなくてほとんど仕事を忘れていました)。
 ホテルに帰ってからは、秋田大学の先生をしている恩師と合流し、居酒屋で近況を語り合うこともできた。

15「新鷹会・・・の風さん」
 昨日は有休予定を変更して秋田へ出張したが、今日は、正真正銘の計画有休である。
 毎月15日は新鷹会の勉強会だが、今日は午後1時から理事会が開催されるので、秋田から空路東京へ入った。空港リムジンバスの窓から名残惜しげに外を眺めた。秋田市内でさえ残雪が多く、少し郊外へ出ると、田畑は一面の銀世界。冬の日差しを反射して雪の白さが目に痛いほどだった。
 一昨日に続いて今日もJALを利用した。機種はA300−600Rで、座席は横に2−4−2列である。大気が安定していたせいか、ほとんど揺れがなく、快適な空の旅だった。飛び立ってすぐ見えた雲の上の鳥海山が美しかった。
 羽田空港は、何年か前に青森県の八戸高専で講演をするために利用して以来である。
モノレール、山手線、小田急線を乗り継いで、何とか代々木八幡に間に合った。理事会では、財団法人新鷹会の収支決算や年度計画が打ち合わされた。また、新鷹会で編集出版している「大衆文芸」の無料送付先見直しがあった。

 天気が良くなってきたせいか、勉強会には多くの人が集まった。17人である。作品は3本あったが、時間の都合で、2本だけが合評された。
 他に今日のトピックスとしては、今年から廃刊予定だった『代表作時代小説』を引き継ぐ出版社が出てきたことと、そのための掲載短編の選考会議が開催され、「大衆文芸」から7作品も候補(そのうち2本が拙作とは驚いた)があり、中から1本の掲載が決まったことである。新人の作品であり、喜ばしいことだ。
 3泊4日の旅の最終日であり、今夜は、2次会は遠慮して、まっすぐ家路につくことにした。さすがに疲れが出て、帰りの新幹線では爆睡していた。

16「くしゃみで疲労困憊・・・の風さん」
 3泊4日の旅に出ていたせいか、非常に長い時間が経過した気がする。アインシュタインの特殊相対性理論によれば、光の速度に近づくほど時間は遅れるので、きっと私は超高速で(ただし頭の中、意識の中だけ)動いていたに違いない。
 朝から何となく体調が変だった。疲労感ではなく、体がひどく敏感になっている。大きなくしゃみが出、鼻水が流れ落ちる、つまり、花粉症の警告である。起きてすぐに弱めの薬を服用した。ところが、出社してからも、やたらとみっともなく大きなくしゃみが出るので(医務室で花粉症の薬をもらったのはもちろん)、昼頃に最後の砦である売薬(抗ヒスタミン剤のカプセル)も飲んだ。普通は、これがかなり強力なので、副作用として体がひどくだるくなるものの、くしゃみも鼻水もぴたりと止まる。ところが、ところが、である。止まらないのだ、今日は!
 仕方なく、私はどうしたかと言うと、職場のクリーンルームへ飛び込んだ。
 かつて花粉が多量に飛散する地域の工場で仕事していたとき、クリーンルームに飛び込むと、一時的にもせよ、花粉症がぴたりと止まることを経験していたから、今回も、それを狙ったわけだ。
 いちおう症状は軽減されたが、完全には症状が止まらなかった。これは、今日の花粉の飛散がハンパでないからか、あるいは職場のクリーンルームの清浄度が十分でなかったかのどちらかだろう。
 結局、夕方、すみやかに帰宅し、今日3度目の薬の服用をして、ソファで横になったら、そのまま爆睡してしまった。一日中くしゃみのし過ぎで、体力を消耗しきったらしい。

3月17日(木)「PTA役員の役割が決まった・・・の風さん」
 今日は、父の最初の命日である。
 幸運にも雨模様の1日となった。しとしと降るだけで、花粉症がぐっと楽になるから不思議だ。
 夕方少し早めに退社して、中学校のPTA委員会に出かけた。とりあえず選挙で役員に選出されたのだが、どんな役割が回ってくるか、今夜決まるのである。
 私にしては不安でいっぱいの中、委員会に出てみると、前年度の役員が各地域に割り振られた役割をてきぱきと決めていってくれ、私は会計役となった。いちおう四役(会長、副会長、会計、書記)の一人だが、次回の総会で収支予算報告をすれば、あとは黙って座っているだけでいいらしい。本当にそうなら助かる。ただし、総会に出席するためにはまた有休をとらねばならない。今年は入社以来最も有休取得の多い1年になりそうだ。

3月18日(金)「父のモーニング・・・の風さん」
 今朝の午前2時まで準備して、名古屋へ出張した。品質管理に関する講演をするためだ。もちろん会社の仕事。これが年に2回ほどある。実践できているかどうか、はなはだ怪しいところはあるが、モノづくりに関する品質の話は、本来私の専門分野のひとつだ。いくらかでも世の中のためになるように、懸命に説明した。
 月曜日の出張も、今日の出張も、会社の仕事なので、スーツを着て行く。今は冬なので、比較的厚手の生地のスーツを選ぶ。今週は、どちらも大学時代にこしらえたスーツで行った。25年以上も前のスーツである。体格がそれほど変わっていないので着られるのだが、それよりも、私はとにかく物持ちがいい人なのだ。そして、簡単に物を捨てられない性格なので、時代遅れになっても持っていたりする。
 服と言えば、亡父は農業高校の校長だった関係で、礼服はモーニングだった。遅くとも校長になった時にあつらえたとすれば、39歳のとき、つまり50年前である。そのモーニングは、私が会社の部下の仲人をするときに、父から譲ってもらい着た。少々小さくてゆるかったが、そのまま着た。今度着るのはいつかは分からない。自分の子供の結婚式のときかもしれない。とにかく、モーニングを新調することはないだろう。そのときは、父から通算して、60年ぐらい経過しているはずだ。親子二代で物持ちがいいということか。
 父が亡くなったとき、社内には、「遠隔地で密葬とするので、香典や弔電は遠慮させてもらいます」と伝えた。それを気にせず、香典や弔電を送ってきたのは、私が仲人をした二人だけだった。

3月19日(土)「話題てんこもり・・・の風さん」
 夕べは退社後、歯医者に寄った。今回で最後かと思ったが、「患者さんは歯磨きが下手だし、まだ虫歯も残っているので、これからもずっとケアする必要がありますね」と言われてしまった。半年に一度の歯医者通いではどうしようもないらしい(涙)。歯医者の後は、床屋へ行き、カットされている間、爆睡していた。夜は、寝る前にPSPでリッジレーサーをやったので、その後
、よく眠れた。
 今朝はまともに起きて、次女を連れてケータイを買いに行った。これで家族全員がケータイを持つことになった。この通信費はすべて私が負担する。気前のいい親父である(と言うか、思わぬトラブルの温床になる恐れのあるケータイに関して、父親として目を光らせるため、というのもある)。
 花粉が激しく飛散する上天気だったが、体がカチンコチンになっていて気持ち悪いので、久々のトレーニングに行ってきた。父が死んでからようやく2回目だ。今日は軽く体をほぐす程度にした。トレーニング後の血圧は、(ここの血圧計はどうも信用おけないが)105−64だった。体重はやや増えていたものの、BMIが22.0だから標準ということだ。ただし、体脂肪率は20.3%と不愉快な数値だった。
 しばらく小説家から遠ざかっているときに他人の新刊が届くのは、励みにもなるが、つらいものもある。今日届いたのは、鈴木輝一郎さんの『燃ゆる想ひを』(河出書房新社 1600円税別)である。ハードカバーを出し続ける輝一郎さんの旺盛な筆力には圧倒される(今のところ輝一郎さんに胸が張れるのは体脂肪率だけだ)。今回も、輝一郎さんの得意な戦国時代の話だが、初めてかもしれないキリシタンが登場する。装丁は、同社刊の『幻術絵師、夢応のまぼろし』でも素晴らしい作品を提供した、中島かほるさんだ。渋く上品な絵柄となっている。

3月22日(火)「息子が息子なら父も父・・・の風さん」
 連日花粉攻撃に遭って体力を消耗しているが、今日は朝から雨模様(まだ降っていないが降りそうだという様子のことだそうだ)で、その後ちゃんと降り出したので、1日を楽に過ごせた。しかし、薬は飲んでいる。その薬の副作用だけではないが、毎晩寝る時刻が遅いせいもあって、睡眠不足で眠かった。
 やっと帰宅してホッとしたところ、長女から、長男が私のプレステ2をリビングから自分の部屋へ持ち込んでいると聞いた。さらに悪いことに、学年末試験で欠点を3つ取ったらしい。「ちゃんと叱ってよ」と訴えるので、長男の部屋へ行き、「黙って持って行くとはけしからん。今夜中に元に戻せ。それから、次の試験で欠点ゼロになるまで、プレステ2の使用は禁止する!」と大岡裁きのように申し渡した。
 深夜、リビングへ行ってみると、プレステ2が戻っていた。にんまりした私は、充電完了のPSPを取り出して、リッジレーサーを楽しんだ。

3月23日(水)「小説家復活の前に体力復活・・・の風さん」
 今日も小雨がぱらつくありがたい1日だった。
 毎日やることが多くて、小説家に戻れない。とにかく今週末で町内会の仕事を完了させる。その覚悟で毎日を過ごしている。
 とは言え、先立つものは金・・・じゃなくって、体力だ。今日は速攻で帰宅してトレーニングに行ってきた。久しぶりのウィークデー・トレーニングである。天気が悪いのに、けっこう混んでいた。のんびりやっているわけにはいかないので、軽く体をほぐす程度に。トレーニング後の数値は、血圧が125−67(全く信用おけない)、肥満度はプラス0.4%、体脂肪率が18.7%、BMIが22.1だった。激しく運動しなければ、本当の筋力や体力はつかない。

3月25日(金)「早くも初雪?・・・の風さん」
 ここのところ睡眠時間を削ってでも、意地で雑用処理を進めていた。だいたい4時間前後の睡眠時間が続いていた。それでも「めまい」が生じなかったのは幸いだった。元の体に戻ったのかもしれない。・・・が、さすがに夕べは限界が近いと感じ、午前1時に就寝した。で、今朝の起床は7時。6時間寝たことになる。それでもなぜか体の節々が痛かった。そして、少し寒い。
 出勤のため外へ出ると、肌を刺されるように寒い〜。ミッシェルで走っているうちに雪がちらつき出した。まさか〜? あと1週間もすれば桜が咲きだそうという時期である。とすれば、この雪は、初雪に違いない。
 妙な天気だったので、花粉症が発症しそうになったり、急に引っ込んだり、体調が上下した。今日は比較的席にいる時間が長かったので、資料を1枚作成しようとしたのだが、・・・さっぱり出来なかった。絶不調である。まだ睡眠不足なのだろうか。
 夕方から本社へ出張するので屋外へ出たら、今朝よりもさらに冷え込んでいた。
 真冬のような寒気の中、9時半近くに帰宅した。
 昨日買ってきた「マ・メール」に、ワイフがようやく水をやったという。あと5日もあれば、広告塔のような豆が飛び出すに違いない。

3月26日(土)「神様からのプレゼント・・・の風さん」
 本当に久しぶりによく眠った。私が起き出す前に、ワイフと次女は名古屋へ出かけた。高校受験のための集中講座を受けるのである。美術科を狙っているので、毎日4時間連続のデッサンをやるらしい。私たち夫婦の果たせなかった夢を、次女はかなえてくれるのだろうか。そういえば昨日、長男の通信簿を見た。高校で超劣等生の長男だが、美術だけ「5」がついていてぶったまげた。それは褒めてやったが、高校で落第だけはするな、とクギをさしておくのも忘れなかった。
 庭の梅を眺めたら、もう花は終わりかけていた。父の植えた梅である。その父のお骨は来週やってくる。桜の花の名所でもあるお寺の墓地に埋葬する。四十九日の法要のときは、桜が咲き出しているに違いない。
 朝食後、書斎へ入った。雑用はまだまだ多い。それらをひと通り片付けておかないと、目の前に作家の道は開けない。
 ・・・早めの夕食を一人で摂ってから集会所へ出かけた。町内会の仕事ももうすぐ終わる。
 郵便物の中にプレゼントがあった。インターネットで応募したひとつでギフト券1000円が当たったのだ。つい先日、ワイフも別の抽選で商品券2000円をゲットしていた。出費がかさんでいた昨今、神様からのプレゼントに違いない。

3月27日(日)「沈丁花とトレーニング・・・の風さん」
 今日も花粉予報は「非常に多い」だったが、気温が高いにもかかわらず、全く風がない。風がないから花粉が飛散しないようだ。ときおり屋内に残っている花粉で爆発的なくしゃみが出るが、それほど悪化しなかった。
 突然霰粒腫の話題になるが、今でも目薬と軟膏を使っている。毎朝左目をチェックしているが、いくらかおさまってきた感じがしたので、まぶたの裏も確認してみた。裏にはポリープ状の末期の霰粒腫があったからだ。ところが、いくら探してみても、以前あったところにポリープがない。「吸収されて消えることもある」とは聞いていたものの、こんなに早く消滅することがあるのだろうか。とにかく、霰粒腫は表側だけとなった。あとひと息かもしれない。
 トレーニングのために外出したら、無風の空気の中を沈丁花の甘い香りがゆったりと流れてきた。いや、無風だから流れてくるわけがない。発散されて大気に充満した沈丁花の香りの中を歩くことによって、相対的にこちらの鼻腔(びこう)を刺激してくるのだ。まさに香りの中を泳いでいるといったところか。
 父が死んでから4回目、今月3回目のトレーニングの結果は、血圧正常、BMI値が22.0と理想値で、体脂肪率は19.5%に上昇していた。できれば月に8回以上行きたい。そして、BMI値は22.0を維持したまま、体脂肪率を常時15%前後にできたら引き締まった肉体と呼べるのではないだろうか。

3月28日(月)「雨の月曜日は万博日和?・・・の風さん」
 天気予報通りに朝から雨がぱらついていた。こういうときは花粉症は大丈夫だろうが、それでも念のため、朝一番、目覚めの一杯は、薬の服用のための水だった。
 昨日のトレーニングの影響で、両足の太ももの筋肉が心地よく痛い。
 今日は、休む間もなく会社でのスケジュールが目白押しだったので、夕方ようやく開放されてさっさと帰宅した。夕刊を見て、思わず笑ってしまった。万博がこれまで最高の入場者数だという。昨日のように日曜日で絶好の見物日和でも、内覧会で露呈した混雑を恐れて、客足はそれほど伸びなかったのだ。それが、一転して、雨の月曜日、ここぞ狙い目とばかりに、主に県内の人たちが繰り出したのだ。
 近々私たちも出かけるので、しっかり見学コースを研究しておかなければならない。

3月29日(火)「大江戸小粋組・・・の風さん」
 神奈川県相模原市まで、(趣味である)会社の仕事で出張した(笑)。
 そこでの会議が予定より延びて、終わったのは4時半である。この4時半が、今夜のスパイ大作戦にとっては、タイムリミットだった。私は急に立ち上がり、先方に暇を告げるや、同僚二人を置き去りにして、会議室を飛び出した。
 それからタクシーで相模原駅まで向かい、JR横浜線、東急田園都市線を乗り継いで、永田町駅に着いたのが5時50分ごろだった。目的地は国立劇場。今夜は、関東の女性芸人ばかりで構成した住吉木遣り連「大江戸小粋組」の旗揚げ公演があるのだ。もちろんお目当ては鳴海風がほの字の神田紅さん
 メインの木遣りは確かに迫力があったが、収穫は他にもたくさんあった。先ず、司会の永六輔さんの語りの見事さである。けっこうなお年のはずなのに、立て板に水である。アドリブと機転の利いた話題が次々に出てくる。特に感心したのは、話題がちょっと高度になり過ぎて、客席がついて行けなくなったと鋭く判断するや、さっと話題を変えてしまうのである。馬鹿な私なら、難しい話題を手を変え品を変え、何とか理解させようとしてますます深みにはまる。他にはすず風にゃん子・金魚の漫才。関東の漫才でこれだけ速射砲のようにギャグが連発できるコンビは他にはいないのではないか。とにかく間がすごい。途切れないのだ。関西は早口だが、普通の速度で間が切れなければ、これだけテンポよく行くという証明だろう。
 それから、「多国籍落語」というのには驚いた。桂右團治、三遊亭歌る多、古今亭菊千代の3人による、同じ題の落語なのだが、右團治が日本語で内容を理解させた後、歌る多が英語、菊千代が韓国語でやるというものだ。話の筋が分かっているだけに、実におかしい。バドガール姿で現れた歌る多の日本語的英語も、チョゴリ姿で現れた菊千代の本格的(に聞こえた)韓国語にも唸ってしまった。
 しかし、なんと言っても、紅さんが一番可愛かった(さすがほの字)。
 帰りは、最終ののぞみ(21時18分発)に何とか間に合って、帰宅したのは午前零時過ぎである。
 さて、女性芸人パワーに圧倒された話ばかりでは能がない。
 今日は、鈴木輝一郎さんからもらった『燃ゆる想ひを』(河出書房新社)をカバンにしのばせて家を出たのだが、帰宅するまでに読破できた(花粉症でず〜っと涙目だったのがつらかったけれど)。輝一郎さんはますます文章が達者になってきたなあ、と思った。読んでいて(良い意味で)ちょっと心に引っかかった部分が2箇所あった。
 まず1箇所目。「人が生まれるときにも、そして死ぬときにも理由はない」先日、実家へ寄ったときに、兄貴から聞いた話だ。医者はよく患者が死ぬと、遺族から「どうして死んだんですか?」と尋ねられるそうだ。そういう時、大真面目に病気や医学の話をしても遺族は納得しない。だから、「寿命なんです」と答えるのだという。人間は誰でも死ぬ。病気で死ぬこともあれば、事故の場合もある。老衰で天寿を全うすることもある。しかし、どんな場合でも、それが天命であると考えるならば、寿命だということになろう。「死ぬときにも理由はない」という表現は、まさに多くの死と向き合ってきた医者の言葉とあい通じるものがある。
 次に2箇所目。「天はすべての場所ですべてを見ておられる。しかしながら、ただ沈黙し、ご覧になるばかりなのでな」これはまさに遠藤周作の名作『沈黙』に通じる文句である。天(万能の神でもいいか)は見ているだけで裁かないし、まして実際に救ってもくれない。見られていることを意識している人間が、自分で自分を裁いたり、具体的に救うという行為をするしかないのだ。天は自ら助くる者を助く。
 巻末の付記が、あとがきのようにパンチが効いていた。

3月30日(水)「花粉症で死にそうな風さんの巻」
 つらい花粉症から一夜明けて、スッキリした目覚めを・・・期待していたが、ダメだった。朝から目がショボショボ。
 強力な鼻炎用カプセルを服用し、ミッシェルで本社へ行った後、製作所に戻り、真っ直ぐ医務室へ向かった。「先生。花粉症で死にそうです。薬ください」「それだけ元気なら、当分死ぬことはない」
 午後の会議の最中に、朝飲んだ鼻炎用カプセルの副作用が出てきて、うつらうつらしているうちに会議が終わってしまった。会社でもらった薬なら、これほどの副作用は出ないが、やはり花粉の飛散が最悪のときは、薬の効きも弱いのだ。
 常に見えない敵と格闘している風さんとしては、やはり最後は体力だと思っているので、帰宅後、トレーニングに行った。今日の数値は、血圧正常。BMIが21.9で体脂肪率が18.8%だった。ラボードで走ったので、足がフラフラ。
 家に帰って、シャワーを浴びて、夕食を摂ってから、メールチェック。気まぐれ日記を更新した後、階下のサンルームへ入って、町内会の仕事をしているうちに午前1時を回ってしまった。ああ、こうしてまた小説家から遠ざかっていくのか・・・(涙)。いやいや、この町内会の仕事もあとわずかで終わる。
 
3月31日(木)「桜開花宣言・・・の風さん」
 とうとう名古屋でも桜が咲いたらしい。季節は間違いなくやってくる。週間天気予報では七七日忌の日曜日は雨が降りそうだ。花粉は飛ばないし、雨露に濡れた桜を楽しめるかもしれない。出勤のためにハンドルを握っているミッシェルのヒーターを入れようかどうしようか、迷う陽気になってきたのだ。
 いつもどおり会社での1日は、あっという間に過ぎていく。
 今日は、会社の帰りに某ショッピングモールに寄って買い物をした。目的は、忌明け通知用ハガキの購入である。父の死はあまりにも突然だったので、遠隔地の人々にはまだ父の死は伝えていないのだ。今回、七七日忌と納骨式を終えたら、それを伝えるハガキを送ることで、父の死を通知しようと考えている。そうなると、当然お墓の所在も明らかにするわけだから、どなたかお参りに来られるかもしれない。そのときは、私が対応しようと思う。
 風は強かったが、以前ほどの冷たさは感じない。ミッシェルを軽快に転がして帰宅した。
 夕食の前に先ずシャワーを浴びてしまう。
 やることが多い風さんの、最近の習慣である。

05年4月はここ

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